三好セキ女史頌徳碑

三好セキ女史頌徳碑

 三好セキ女史は、岐阜県恵那郡本郷村出身。18歳の時に三好徳松氏と結婚し、1男3女をもうける。
 夫の三好徳松氏は、当時の遠賀郡浅川村に生まれ、鉱夫からたたきあげて三好鉱業株式会社の鉱主になり、新しい技術を積極的に取り入れた炭砿経営を行った。大正9年から衆議院議員を2期8年間つとめるなど大きな足跡を残した。
 夫人の三好セキ女史は、当時、小倉市と直方町にしか高等女学校がなかったことから、遠賀郡内に女子中等教育を行う学校の必要性を感じ、大正7年に私財を出して私立折尾高等女学校を設立した。その後折尾高等女学校は、大正15年に福岡県に敷地・建物すべてが譲渡・移管され、数々の変遷をへて昭和31年に現在の福岡県立折尾高等学校となった。
 セキ女史は、徳松氏の死後、昭和9年に周囲の反対を押し切って三好鉱業を日本炭礦に売却した。その時、会社の株式をはじめ広大な土地などの不動産をすべて処分し、三好徳松氏名義で次々と公共に寄付した。その後は福岡市に移り住み、昭和33年に81歳で他界した。
 この頌徳碑は、昭和9年に建設された。碑文は、当時の外務大臣でのちに内閣総理大臣となった廣田弘毅氏の筆によるものである。
 福岡県立折尾高等学校創立50周年を記念してこれを記す。
平成18年8月吉日

福岡県立折尾高等学校

なお、「きらり、発見!堀川ものがたり館」には、女史の遺品として野外燗付け器(右の写真)が収蔵されている。